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(1999年5月29日現在)

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 范応鈴について

 清明集中に22の判を収め、劉後村に比肩(柳田1995、p.197)。

 任地については柳田節子1995p.232の見解が妥当、陳智超1985は撫州通判、き州通判、広西提刑在任中のものが多いとするが、宋史410伝ではさらに知吉州、浙東提刑、江西提挙、湖南運判兼安撫も歴任、弘治撫州府志17-11には嘉定13年に知崇仁県、嘉煕3年に江西提挙になったとある。嘉靖浙江通志31-16官師志五之十一にもあり。傳:『西堂雑著』10巻、断訟語曰『対越集/對越集』49巻があるとする。バーンハート1997が、女子分法についての范応鈴の判語について「1220年代に下した……おそらくは彼が江西撫州の通判かあるいは湖北[当時は淮南西路]き州の通判をつとめた時のものであろう」(p.242)と言うが、そこまで確定的には言えない。宋人伝記資料索引には元代の伝がある。会要には礼に1個所あるが、時期的な参考にならない。

 さて、1223年ころ、彼はどこにいたか。不明だが、清明集p.117の判から、1239年に淮南にいたようである(梅原郁訳注1986、p.165)。1220年代は江西にいた可能性が極めて高い。


方法論的個人主義はアジア史研究に有用か

 盛山和夫『制度論の構図』1995は、M.ヴェーバーなどの「社会的な諸現象はすべて、個々人の行為の組合わせに他ならない」という方法論的個人主義は、「システムや資本主義や階級その他のほとんどの社会的観念に擬人的な権能を認めたがる多くの社会学的記述に食傷気味の人々にとって、一服の清涼剤を与えるという機能を別にすれば、方法としても認識としても間違っている....のような社会制度を説明するためには、それを構成している人々の行為を理解すればよい、という方法....は失敗を運命づけられている」、何故ならヴェーバーもパーソンズも、行為を単位として社会を分析しているからだ、しかし実は社会現象は諸観念だ、という主張がある。

 社会科学でもポストモダンのイデオロギー的、思想的傾向が強くなりつつある反面、経済学ではMI(methodological individualism)の権化である新古典派が依然主流であり、完全にマル経やケインジアンなど全体論的社会実体論的な思想を隅に追いやってるし、ラディカルズやレギュラシオン(マル経の亜流)はかなり傍流という感じだ。経済学は、ポストモダンとは非常に縁遠い。
 新古典派が、あくまでceteris paribusにこだわって、現実の経済の分析で成果を挙げているという事実は、non-MIの社会学者によってどう評価されているのだろうか。
 

一方、原洋之介『クリフォード・ギアツの経済学』1985を参照すると、

《T.Schultz, S.Popkin(pol.econ.)、講座派、大塚久雄》組

《C.Geertz, J.C.Scott(moral econ.)、労農派、宇野弘蔵》組

という対立図式が存在する。これは、ゲーム理論で非協力ゲームになるか、協力ゲームになるかの差だ。n人囚人のジレンマで、シュルツ組は相手を出し抜く非協力ゲームを想定し、ギアツ組は協力解が得られる「協力ゲーム」を想定しているに過ぎない。非協力ゲームが協力ゲームに転換する条件そして、いくつかあるが、モラルはそのひとつだ。ギアツ組は協力解を得る条件、つまり文化、モラルを重視する。ポランニー風に「われわれにとって問題の急所は、「経済外的要因」ないしは「非市場的慣習」の力を積極的なものとして評価するかしないか、という点にある」(p.167)。
 プレーヤーの戦略に2種類ある。協調的と裏切り的。では何が裏切り的から協調的へと変化させるか。繰り返し・コンヴェンション、サンクション、制度、モラル。コンヴェンションやサンクションは個人主義的。制度やモラルを説明するときの、アプローチの方法にいくつかあるのかもしれない。

 アジア研究にどちらが適合的か断言することは不可能だが、自戒を込て言えば、「食わず嫌い」を排することが肝要と思われる。

 





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